昭和44年03月17日 夜の御理解
今日、久留米の佐田さんのお導きで、佐田さんの遠い親戚に当たります方で、本田さんていう方がおられます。大分県の方ですが。まあ様々な難儀なことが重なっておりました事が、一つ一つこう、おかげを受けて行かれる。それが、おかげを受けていくだけではなくて、心の上に喜びが湧き、安らぎが頂けて、本当に、金光様の御信心の有り難さというようなものが、段々身に付いて参りましたら。
御両親の御霊様の、御霊様も一緒に助けて頂きたい。そういうま願いが立てられて、ちょうど今日はその、先日亡くなられましたお婆さんのお立ち日に当たりますと。立ち日か・・・え?命日かね命日に当たられる。ほれで今日お祭をしてくれという願いが、もうあっておりました。いわゆるゴウヒ祭ですねご両親のここに御霊家に一緒にお祭して頂くお祭が今日ございました。
本当にその有り難いと思います事は、私共が助かって行きよる。同時にそういう助かりを先祖の御霊様にも一緒に助かってもらいたい。そこに私は金光様の御信心があると思うんですね。それがそう実感出けれるという事、ね。そこであの今日の事になった訳ですが。佐田さんに帰られた後にまた残られましたから、本当にあのお導きが出けてここでこの世の中に難儀をしておる人達が取り次がれて助かって行くだけではなくて、貴方の導きが、もうそれこそまあどれだけ沢山の事になってくるか分からない。
目には見えない世界の御霊さん達がここで助かられて行く事の働きになって来るという事は、まあ有り難い事だというような、御直会頂きながらそんな話させて頂いておる時でした。あの、先生、昨日はあの、新聞にご覧になりましたかち言うて。「私?」この頃あの、新聞という物はもう、あんまり見ませんから全然分からんのですけど。分からんち申しましたら、昨日私が日田で酒屋をしておる時分にその、お得意さんがね、親子心中をされたという記事が出て。
七つと六つになる子供を連れて母親が、何かダムか何かですか。えダムじゃろう。ダムにあの、身投げ心中をしておるんですよね。それがその、今年から学校に行くその、子供を学校連れて行った所がその、今度受け持ちになって下さる先生が、ちょっとその、知能が遅れてたらしいんですよね、姉さんの方が。それであの、特殊の学校に入れなさったらどうですかと言うてその、言われたんです。ね、
それが親としてもう、苦になって苦になって三日間その事を考え抜いた末にね、その娘だけではなくてね、その年子らしいですから、七つと六つの子供を道連れにその、まっ、自殺された訳なんです。その記事が載っていたんですよね。もう本当にもう、信心のない人達の思う事、する事のね、何と悲しい事だろうかと、いよいよ時になってから、本当に信心のない事の。ある者が、さあ、それがね。
他の事ならばってん、もう死ぬ生きるの事ですから、取り返しのつかない事ですから。本当に日頃信心を頂いておる者、御縁を頂いておる者がです、本当にどのような場合んでもこの神様にさえ御すがりしとけばというだけに、この神様も頂いておかなければならないなという事を痛感したと。それでまた、その残られてからあの、その3人の御霊様の、ここに願いがあったんですよね。
そうしておるところにその、ちょうどあの、椛目の定男さん達が、親子5人でですね、里のお母さんと今日はあの、何て言うですか、日晴れですかね。で、そのお礼参りにやって来てるんです。それを見られてからもう、一遍にそのまたこみ上げて来たらしいんですよね。もう本当に、ま、こんな事を言うちゃ失礼だけれども、あの定男さんの、あのいわゆる、まあ頭の程度っちゅうかね。
まあ普通で言うなら、実は私の方にもまあ、ある程度よりか、もっと、「わぁ甘地だろう?」というぐらいな人がおるけど、皆がそれを、皆がいわば馬鹿扱いにするし、親もそげんだし、もう本当に親の、まあいわば難儀の元になっておるけれどもね。定男さんの場合はあれでですね、やっぱり長年の親の御信心で、あれが、ちょっと他の事出けんけども、この事だけは出来るという仕事におかげを頂かれた。
しかもあれに奥さんをもらわれたと言うただけでもね、ほんにたまがってしもうておったのにです、今度赤ちゃんまで出来られてです、親子5人連れでお礼に出て来ておられるのを見てから、本当に信心のある者とない者の違いをもうそこにですね、見たと言うてから、親子で泣かれるんですよ。あの、いわゆるまだ、もう十年も前に酒屋をしておられた時の、ただお得意さんに過ぎないのですけどね。
それで昨日、たまたま、新聞記事で見てから、その事を、信心のある者とない者の違いをそこに、その感じられておられての、お届けでございましたけれども。確かに信心をしておれば、信心が分かる分からないは別として、何とはなしに、やはりこう、何とはなしに、神様のおかげを受けておる事を、この田中さんの家の事だけでも分かりますよね。もう本当にそれを感じますよ、もう本当に。
これは私共でも人間心を使うたら、定男さんが妻帯するなんてもう夢にも、私共も思わないくらいでしたけれども、やはり実際はそうではなくて、ちゃんとそれに釣り合うたという訳じゃない、もう本当に勿体無いようなですね、ああして嫁さんまでもろうて、さあもう一年何ヶ月、皆こうしてお父さんに、定男さんアンタもパパになったんだから、しっかりせにゃでけんよち言うたら、ニコニコ笑ってるんですよね。
もう本当にまあ可愛らしい女の子が出けておりますが、本当にこう助かって行くという事は、もう私共が気がつく気がつかんはもう別としてですね、特別な神様のそうしたご守護を、信心させて頂く者は受けておるという事ね。それが信心が段々手厚うなってくるとです、そのそれがハッキリ自分でも分かる。このようなおかげを受けておる。例えて原さんの昨日のお届け聞かせて頂いてもそれを思うです。ね、
ああいう娘婿さんが不意の事故で亡くなられたんです。それはもう目の前が真っ黒になるような事なんだけれどもです。そういう中にも先生こういうお繰り合わせを頂いてと言うて、昨日お届けをしておられます様に。その特別の神様のお計らいというかおかげをね、感じられる所に例えば苦しい事も、れが薄らぐまたは無くなるというおかげを受けられる。そこまでは信心を一つ進めとかなきゃいけないと思うですね。
昨夜の御理解のにも頂いております様に、本当に神様の特別なご守護を受けておると思わなければおられないという、おかげを自分で実感しなければねその事は。それも矢張り信心を程度をずっと高めて行かにゃ、進めて行かなければそれが目の当たりにおかげを頂いておっても、それをおかげと感じきらない。感じきらなければ有り難いなあとも勿体無いなあとも、そういう実感が湧いて来ないんですね。そこに求められるのが修行なんです、ね。信心修行させて頂く所にはああれもおかげであった。
是もおかげであったと分からせて頂く様になる所から、所謂信心の願い神様の願いである所の有り難い、勿体無いの信心生活が出来る様になるんだと、私はこう信じておりますですね。今朝の佐田さんのお届け聞かせて貰い、丁度その時に田中さん達の親子5人での参拝があった事を思うて、確かに神様のお働きおかげというものを受けておられる、又は受けていないという物の違いをね、ハッキリそこに見た様な気が致しましたね。
どうぞ。